石川啄木『啄木全集 第二卷』(岩波書店)昭和28年発行 所収
14分31秒
・・・・・・・・・・・・・・
石川啄木
祖父
とある山の上の森に、軒の傾いた一軒家があつて、六十を越した老爺と
お雪は五年前の初雪の朝に生れた、山桃の花の樣に可愛い兒あつた。老爺は六尺に近い大男で、此年齡になつても腰も屈らず、無病息災、
親のない孫と、子のない祖父の外に、此一軒家にはモ
老爺は重い斧を揮つて森の木を伐る。お雪は輕い聲で笑つて、一人其間近に遊んでゐる。
大きい木が凄じい音を立てて仆れる時、お雪危ないぞ、と老爺が言ふ。小鳥が枝の上に愉しい歌を歌ふ時、『祖父さん鳥がゐる、鳥がゐる。』とお雪が呼ぶ。
丁々たる伐木の音と、嬉々たるお雪の笑聲が毎日、毎日森の中に響いた。
其森の奧に、太い、太い、一本の
老爺は伐仆した木を薪にして、
雨の降る日は老爺は盡日圍爐裏に焚火をして、凝と其火を瞶つて暮す。お雪は其傍で穩しく遊んで暮す。
時として老爺は
『お雪坊や、お前の
と言ふ事がある。
其阿母が何處へ行つたかと訊くと、遠い所へ行つたのだと教へる。
そして、其阿母が歸つて來るだらうかと問ふと、
『歸つて來るかも知れねえ。』
と答へて、傍を向いて溜息を吐く。
お雪は、左程此話に興を有つてなかつた。
五歳になる森の中のお雪が何よりも喜ぶのは、
『祖父さん、暗くして呉れるよ。』
と言つて、可愛い星の樣な目を、堅く、堅く、閉づる事であつた。お雪は自分に何も見えなくなるので、目を閉づれば世界が暗くなるものと思つてゐた。
お雪は一日に何度となく世界を暗くする。其都度、老爺は笑ひながら、
『ああ暗くなつた、暗くなつた。』
と言ふ。
或時お雪は、老爺の顏をつくづく眺めてゐたが、
『祖父さんは、何日でも半分暗いの?』
と問うた。
『然うだ。祖父さんは左の方が何日でも半分暗いのさ。』
と言つて、眇目の老爺は面白相に笑つた。
又或時、お雪は老爺の
『祖父さんの頭顱には怎して毛がないの?』
『年を老ると、誰でも俺の樣に禿頭になるだあよ。』
お雪にはその意味が解らなかつた。『古くなつて枯れて了つたの。』
『アツハハ。』と、老爺は齒のかけた口を大きく開いて笑つたが、
『然うだ、然うだ。古くなつて干乾びたから、髮が皆草の樣に枯れて了つただ。』
『そんなら、水つけたら
『生えるかも知れねえ、お雪坊は賢い事を言ふだ喃。』
と笑つたが、お雪は其日から、甚麼日でも忘れずに、必ず粗末な夕飯が濟むと、いかな眠い時でも手づから漆の剥げた椀に水を持つて來て、胡坐をかいた老爺の頭へ、小い手でひたひたとつけて呉れる。水の滴りが額を傅つて鼻の上に流れると、老爺は、
『お雪坊や、其麼に鼻にまでつけると、鼻にも毛が生えるだあ。』
と笑ふ。するとお雪も可笑くなつて、くつくつ笑ふのであるが、それが面白さに、お雪は態と鼻の上に水を流す。其都度二人は同じ事を言つて、同じ樣に笑ふのだ。
夕飯が濟み、毛生藥の塗抹が終ると、老爺は直ぐにお雪を抱いて寢床に入る。お雪は桃太郎やお月お星の繼母の話が終らぬうちにすやすやと安かな眠に入つて了ふのであるが、老爺は仲々寢つかれない。すると、
生れる兒も、生れる兒も、皆死んで了つて、唯一人育つた娘のお里、それは、それは、親ながらに惚々とする美しい娘であつたが、十七の春に姿を隱して、山を尋ね川を探り、麓の町に降りて家毎に訊いて歩いたけれど、
翌年の春の初め、森の中には未だ所々に雪が殘つてる時分お里は
二月も經たぬうちに媼さんも死んで了つた。――
雨さへ降らなければ、毎日、毎日、丁々たる伐木の音と
或晴れた日。
珍らしくも老爺は加減がよくないと言つて、朝から森に出なかつた。 お雪は一人樹蔭に花を摘んだり、葉に隱れて影を見せぬ小鳥を追ふたりしたが、間もなく妙に寂しくなつて家に歸つた。
老爺は圍爐裏の端に横になつて眠つてゐる。額の皺は常よりも深く刻まれてゐる。
お雪は
暫時經つと、お雪は自分の目を閉ぢて見たり、開けて見たりしてゐた。老爺の目が二つとも閉ぢてゐるのに、怎したのかお雪は暗くない。自分の目を閉ぢなければ暗くない。………
お雪は不思議で不思議で耐らなくなつた。自分が目を閉づると、祖父さんは何日でも暗くなつたと言ふ。然し、今祖父さんが目を閉ぢてゐるけれども、自分は些とも暗くない。……祖父さんは
又暫時經つと、お雪は小さい手で密と老爺の禿頭を撫でて見た。ああ、毎晩、毎晩、水をつけてるのに、些ともまだ毛が生えてゐない。『此頃は少許生えかかって來たやうだ。』と、二三日前に祖父さんが言つたに不拘まだ些とも生えてゐない。……
老爺がウウンと苦氣に唸つて、胸の上に載せてゐた手を下したのでお雪は驚いて手を退けた。
赤銅色の、逞ましい、逞ましい老爺の顏! 怒つた獅子ツ鼻、廣い額の幾條の皺、常には見えぬ竪の皺さへ、太い眉と眉の間に刻まれてゐる。少許開いた唇からは、齒のない口が底知れぬ洞穴の樣に見える。 お雪は無言で其顏を瞶つてゐたが、見る見る老爺の顏が――今まで何とも思はなかつたのに――恐ろしい顏になつて來た。言ふべからざる恐怖の情が湧いた。譬へて見ようなら見も知らぬ猛獸の寢息を覗つてる樣な心地である。
するとお雪は、遽かに、見た事のない生みの母――常々美しい女だつたと話に聞いた生みの母が、戀しくなつた。そして、到頭聲を出してわつと泣いた。
其聲に目を覺ました老爺が、
『怎しただ?』
と言つて體を起しかけた時、お雪は一層烈しく泣き出した。
老爺は、一つしかない目を大きく瞠つて、妙に顏を歪めてお雪――最愛のお雪を見据ゑた。口元が
再生できない場合、ダウンロードは🎵こちら
【関連する記事】