2018年03月15日

火野葦平「アモル・セコ草」

火野葦平「アモル・セコ草」
火野葦平『比島民譚集』(日本出版、昭和20年)所収

朗読:田中敬三

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夏目漱石「入社の辞」

夏目漱石「入社の辞」

夏目漱石『漱石全集 第9巻』(漱石全集刊行会)大正7年発行

朗読:田中敬三

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高島平三郎「愛の心理」

高島平三郎「愛の心理」

東京放送局『ラヂオ講演集第1輯』(日本ラヂオ協会會、博文館)大正14年発行 所収

朗読:田中敬三




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  高島平三郎



  愛の心理





 諸君、私は今ラヂオを通して、一場の講演を放送するの光榮を有します。私の演題は「愛の心理」であります。提出した問題は非常に大きく、而も與へられたる時間は甚だ短いのでありますから、極めて簡單に御話を致します。

 先づ愛の意義から説明致します。古來愛とは自己を見捨て人の爲にする事であると説くものがありまして、此證據として、英語のラヴの語源を提出いたしました。即ち、ラヴはリーブで、見捨るといふことであるといふのであります。一面から見れば、さうも見られぬことはありませぬが、是は表面的の解釋で、他面から一層深く考察致しますれば、愛は自己擴張であると云ふことが出來ます。即ち自己の要求に滿足を與へて呉れるものを、自己の中に攝取するの意味であります。言ひ換れば愛する者をば、何時も自己の一部分の如くに考へまして、是なしには自己の缺乏を感じ、苦痛を感じますこと、恰も自己の手足が失はれた時に缺乏を感じ、不便を感じ、物足らなさを感ずると同樣になるのであります。此點に於て愛は一切を抱擁する麗しい感情であります。

 更に理論上より申しますると、生きると云ふことゝ、愛すると云ふことゝは、同一現象であるとも見られます。何故かと言ひますれば、吾々は生きるにはどうしても自己以外のものを要求致します。吾々が空氣を呼吸し、日光に浴し、水を飮み、食物を攝るのは皆外物を自己に攝取して居るに外ならぬのであります。其處で吾々は何時も是等のものに憧れを持つて居ります。單純に肉體的に生きるには是等のもので足りますが、更に人には精神的生命の要求がありまして、是なければ精神的に生きることが出來ぬのであります。人が美を要求し、嘆美を要求することは、空氣や、日光や、飮食物を要求すると同樣であります。即ち生命は要求であり、要求は愛であり、隨つて生命は愛であります。故に又愛の無い所には生命が無く、生命の無い所には愛は無いのであります。實に人は愛に依つて生きて居るのであります。そこで愛は如何に之を廣義に解釋しましても、生物に限られると言はねばなりませぬ。電氣や、化學の現象には生物の愛に似た作用が認められますが、それは精神作用以外のものであります故、勿論愛とは申されませぬ。生命あるものが、自己の要求に滿足を與へて呉れるものに對する憧れを愛としますれば植物にも愛の現象がある筈であります。即ち、植物も、空氣や、日光や、水やを要求することは、動物及び吾々人類と少しも異る所はありませぬ。彼等は是等の要求に滿足を與へんが爲めに、非常の活動を致して居るのであります。例へば日陰の草木が日光に向つて發育するの類は、一種の愛現象であると見ることも出來ます。併し吾々が一般に愛と呼んで居ります現象は、之を動物以上に限り而も其階級の高まるに從つて次第に明かになり、人類に至つて其極に達するのであります。

 人類の愛も、其生命の要求に基く事は、他の生物と同樣であります。人類の要求は前に述べました如く、之を肉體に關するものと、精神に關するものとの二種類に大別することが出來ます。隨つて愛も亦生理的、心理的の二種に判つことが出來ます。

 生理的愛とは、生理的要求に滿足を與へ得るものに對して起る愛情でありまして、其最も原始的のものは、子が母に對して起す所の愛であります。即ち母は子供の飢饉に滿足を與へて呉れる第一の人であります故、母が自ら乳を飮ませて養育する以上、其子は必然に母を愛するやうになります。併しながら縱令生みの親であつても、自ら子供を哺育せずして、人に託して置く時は、其子供の愛は當然自分の哺育を受くる所の乳母、或は保姆に移るのであります。兩性の愛も亦、其根本はお互の生理的要求の滿足にあるのであります。此要求に不滿足の點がありますれば、多くの場合に夫婦の愛は他の諸條件の圓滿なるに拘はらず、破綻を來すに至る虞があります。併し兩性の愛が、是のみに止まる時は、所謂性慾と戀愛とが、一つになりまして、人間の愛が、動物の愛と、全く同一範圍を出でぬこととなります。生理的愛は最も根本的のもので必要には相違ありませぬが、是のみでは人間愛の全きものとは言へませぬ。

 そこで心理的愛、即ち精神上の愛が、之に加はる必要があるのであります。此方面の愛は之を四種に分つことが出來ます。第一は感覺的愛であります。人は五官を有して居りまして、其各々の感覺器官は夫々の要求を持つて居ります。例へば、目は美しきものを欲し、耳は好き音を欲するの類であります。其他鼻にしても、舌にしても、皮膚にしても、皆夫々の要求がありまして、其要求に滿足を與へるものを愛するのは、是亦人類も、動物も共通の現象であります。兩性の愛も、其多くは感覺的のものに基くのであります。男女共に容貌と云ふことが、愛を引く有力な原因となつて居ります。此現象は、人類よりも寧ろ動物に於て著るしく現はれて居ります。孔雀や、雉や鷄の如く、雄の羽毛の麗しいことや、獸の毛が或る時期に光澤を増し、美しい聲を出すのや、春の花の間に囀ずる鳥の聲或は秋の叢に靜かに美しくなく蟲の音、何れも皆異性の感覺的愛を引く爲めの表現であります。人類に於ても、青年男女が、特に容貌、風采に注意し、衣服、裝飾等に心を寄せまするのは、固より文化人としての儀禮でありますが、其基く所は性の本能であります。人類が斯かる愛にのみ重きを置くのは、固より賞讚すべきことではありませぬが、去りとて、又之に無頓着たれと強るのも間違ひであります。兩性の愛は、少くとも感覺に依つて滿足を與へるものでなければなりませぬ。

 第二は、固着的愛であります。是は何等の理由なく、自己と密接の關係を保つて、存在して居る者に對して生ずる自然の愛情であります。啻に生物のみならず、無生物でも、長く自己の身に接近致しましたものは、自然と愛着の心が起つて、捨難くなるのが、所謂人情であります。まして親子でも、夫婦でも、特殊の事情なき限り、長く一緒に居りますれば、互に何と云ふことなしに、要求を滿足し合ひ、相愛するに至るものであります。それ故、新しき夫婦などが結婚の當初に、多少の不滿足がありましても、互に忍耐して、雙方が要求の滿足に努めつゝ時日を經過致しますれば、新しき愛の發生を見ることも出來るのであります。

 以上三種の愛、即ち生理的、感覺的、固着的のものは、人類も、動物も、共同に有し得る愛でありまして、其必要の度に於ては缺くべからざるものでありますが、其質に於ては、高尚なるものとは言へませぬ。人類の愛情としては、兩性の愛は勿論、如何なる愛でも、次の心理的愛がなくてはなりませぬ。即ち心理的愛の第三として、同情的愛があります。同情と愛情とは、固より竝立し得る感情でありまして、同情が何時も愛情となるのではありませぬ。元來同情の心理的本質は、他人と同じく苦しみ、他人と同じく樂しむと云ふことにあるのでありますが、愛情は之に加ふるに、更に其者が眼前に存すれば滿足し、存せざれば不滿足を感ずるに至るのであります。それ故、同情はしても、愛情の起らぬ場合は勿論多くあります。例へば不具、廢人の哀れな者を見ますれば、誰でも之に同情しますけれども、是が居れば喜び、是が居らねば物足らぬと感ずる人は、特別の場合の他ないのでありませう。斯く、同情と愛情とは、心理上立派に區別し得る感情でありますけれども、同情から愛情に轉化する機會は甚だ多いのであります。親子の愛でも、夫婦の愛でも、同情が交換されねば、眞の人間愛とは申されませぬ。親が子を理解して、之に同情すると共に、子も亦親を理解して之に同情すれば、親子の間に、眞の麗しい人間的愛が成立するのであります。夫婦の愛も是と同樣でありまして、妻が夫を理解して、之に同情し、之に依つて愛を増すことは勿論、夫も亦妻を理解し、之に同情して、精神的愛を持たねばなりませぬ。婦人が高等教育を受くることの必要なるは、婦人が單なる一個の人としても、十分理由のある事でありますが、高き教育ある夫を理解する點よりも、婦人が出來得る限り高き教育を受ける必要があります。印度のタゴールは曾て「愛とは理解の別名なり」と申しましたが、同情愛を強調する點に於て、私も至極同感であります。又同情的愛は、啻に個人間に必要であるばかりでなく、社會的階級の間に、是が成立せねば、社會は危いのであります。即ち資本家が勞働者に同情して之を愛し、勞働者も亦資本家を理解して之を愛するに至らねば、眞の協調は望まれませぬ。又各國家、各民族の間にも、此愛が成立せねば、世界の平和は到底望まれませぬ。

 第四は、即ち欽仰的愛であります。是は人の才學、徳行、事業、性格など、常に其美點、長所を尊敬し、欽慕する所より起る愛情であります。欽仰も亦愛情と竝行し得る感情でありますが、多くの場合、欽仰が進めば「プラトニツクラヴ」と呼ばれるものとなります。諸君も御承知の如く、プラトンとヘレナとは、互に人格を欽仰し合ひ、肉の關係なく、眞聖の愛情を交換して居たと言はれて居ります。其愛が人間愛の最高のものでありまして、親子の間にも、師弟の間にも、夫婦の間にも、其他人類相互の間に、此神聖なる愛情の交換せらるゝに至りますことは、實に人類の理想であります。此愛は比較的下級の人から、上級の人に對しては起り易いのでありますが、人倫上、親子とか、夫婦とか云ふ關係を擧げて見ますと、親が子に對し、夫が妻に對する場合は殆ど此の愛の缺けて居るのが、從來の一般の状態でありました。併しながら是は人倫の如何に拘はらず、何人も理想としては、互に尊敬し合ふ點から持つことが必要であります。夫が妻の長所を認めて、之を敬愛すると云ふことは、極めて大切のことゝ信じます。凡そ一切の愛の中で、兩性の愛が其模標であり、又最も痛切のものでありますが、更に兩性の愛の模標は、夫婦でなければなりませぬ。夫婦は、以上二種五類の愛が完備して、初めて眞の理想的夫婦と言はれるのであります。

 諸君、私は今日我國の家庭改善の根本問題として、夫婦間に有する愛の行はれることは勿論、特に最後の二類の愛が益々盛んに行はれるに至らんことを切望すると共に、社會の各階級、竝に國際的各民族の間にも、此種の愛が成立して、互に同情し、互に敬愛せんことを期待するものであります。私の講演は是で終りといたします。


posted by 田中敬三 at 10:20| Comment(0) | 朗読 | 更新情報をチェックする